かつて、陸と海の境は「あの世」と「この世」を分ける線でもありました。
そのため、陸地の先端には神社仏閣が建てられ、人々は畏怖と共に大きな関心を払ってきたのです。
今回アグよしの二人が赴いたのは江東区の「木場」。
江戸時代から始まった埋め立てで、この地の「あの世」と「この世」の境界は幾度となく変更されていきました。
その変遷を辿りながら、つぎはぎのように出来た街の綻びを巡ります。
「木場」という地名の通り、木場公園の辺りは江戸時代に船で運ばれてきた材木を海に浮かべて貯蔵する場所だったようです。
江戸の町はたびたび大火に見舞われていたので、延焼する心配もなく船もつけやすいこの土地が最適だったのですね。
埋立地と埋立地の間をつなぐように多くの橋が架かっており、
川辺には倉庫や工場もちらほら残っていて、船も停泊しています。
さて、まずは江戸中期頃の埋立地の先端に建てられた「洲崎神社」に向かいます。
境内の看板によると、江戸当時この場所は海を臨んでとても景色がよく、辺りで蛤を拾ったり、船を浮かべて歌を詠んだりと、「文人墨客杖を引くという絶佳な所」であったそうです。
昔はここより先が海だったのかなぁ。
神社を後にして、かつて海だった東南方面へと歩いていきます。
八百屋さん、ずいぶん賑わっていますね。
広々とした閑静な住宅街の中に、都有地(空き地)や児童遊園が点在しています。微妙に土地が余っているのでしょうか。
洲崎神社より海側のこの辺りは、人が住めない広大な湿地帯でした。
そこにできたのが洲崎遊郭。明治19年に湿地を整備して根津遊郭から移転してきたのち、吉原と並ぶ遊郭として戦後までかなり栄えたようです。
ちなみに 洲崎遊郭を舞台にしたこんな映画も作られました。
今では新しい家やマンションが立ち並び、すっかり綺麗になっているようにも見えますが、この商店街のあたりには少しだけ面影が残っているような・・・。
都営住宅の一角に、洲崎遊郭の供養塔があります。
この都営住宅、昼間でもぼんやり薄暗くて、なかなか雰囲気がありました。
遊郭跡地・洲崎弁天町だったところを抜けて、さらに南へ、潮風の吹く方へと進んでいくと、
東西線の車庫があって・・・、
そしてそして、見つけました。
これがかの、小岩〜亀戸〜越中島を走る貨物専用の路線・「越中島支線」の終着点ですね!!!!!!
(興奮を抑えきれない白井)
元々 この貨物線は豊洲・晴海まで伸びていたらしく、後ろを振り向くと
は、廃線跡が!!!! うわー…!!!
上から見るとこんな感じ。車止めブロックの向こうに、廃線跡が続いていっています。
草ぼうぼうの「都有地」は、首都高の真下まで続いていました。
江戸時代から少しずつ継ぎ接ぎを重ねていって、その度に場所のもつ役割も移り変わっていった、この湾岸地区。
まっさらな土地から計画的に作りあげた街には見当たらないような「ままならなさ」がそこかしこに溢れていて、それがとても愛おしいと感じました。
海、川、線路、高速道路の激しい流れを抱えながら、この街はこれからも変化を遂げていくのでしょうか。
何年か経って街並みが様変わりした頃に、私たちの踊りが場所の亡霊のように思い出されたら楽しいな、と思います。
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